不定期更新 思い出ギャラリー 〜あの時の俺〜

'99年3月末日、私は、己の行動を顧みず、わんぼる君が
暮らす大阪のワンルームマンションへと転がり込みました。

これといった、あても無かった私は、関西の美術系大学の学生課に
潜り込み、そこで見つけた西宮の造園屋さんに就職しました。

長かったモラトリアム期に肥大した観念的な頭を払拭したかったのと、
学生時代から多少なりとも、現場仕事の経験はありましたので、
私には、肉体と感性を用いた理想的な仕事に思えたのです。

が、現実がそんなに甘い訳が無く、想像以上に骨身に堪えるハードワークで、
毎朝、指を攣った状態で目覚める日々でした。
それでも、とにかく必死で通った7月のある日、
宝塚の公園管理で、発動機式のバリカンを持って茂みの中に分け入り、
伸び放題の低木と格闘していた私は、不覚にも、指先を蜂に刺されてしまいました。

この年は、異常に暑く、蜂が大量に発生しており、
私が、仕事中に刺されたのはこれが三回目でした。

大した事無いだろうと思っていると、
30分も経たない内に、全身におよぶ腫れを引き起こし、病院に着くや否や
即、入院となってしまいました。
医師は、ステロイドを点滴しながら、
「あんた、この仕事やないといかんのかね」と私に尋ね、
蜂毒によるアナフィラキシー・ショック症状で、
次、刺されると更にひどい症状を起こし、命の危険があると告げられ、
情けない事に私は、突然、職を失ってしまいました。

失業中、今後の職を考えながらも、制作の夢を捨てきれてなかった私は、
大阪に来てから撮っていた写真をまとめ、「日常の光」と題し、
キャノンの公募、“写真新世紀”に応募してみました。
(これらの写真は、その一部です)
しかし、ここでも現実は、甘い訳は無く、当然の様に応募は残念な結果に終わりました。

そうして、作品が戻り数日が経ったある日、郵便受けに一通の手紙が届いていました。
開けてみると、公募の審査の助手を務めたという方からで、
そこには、励ましの言葉が書いてあったのでした。
私は、驚きと喜びを噛み締め(賞を取った訳でも無いのに‥)、
迷っていた背中を押され(そう思いたかっただけで、本当は続けたかったのです!)、
再び制作に取り組んでみようと、バイトで生計を経てる道へと向かったのでした。

「大阪一年目の夏」

第4回
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バス運転手
飛行機
くま
網戸
北堀江の犬

「日常の光」 

1999 写真 28.5×43.3cm(23点連作)より

上から バス運転手、網戸の光 (宝塚市)
飛んでいく飛行機 (伊丹市)、
妹の車にあったクマ (北九州市)

犬 (大阪市西区)

1999 紙 サインペン 41.8×59cm

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